みなさん、おはようございます。
理学療法士のきんたろーです。
今日はちょっと知識ベースの解説記事というよりは、執筆者である私きんたろーのコラムみたいな記事です。
正直、まだ頭の中でまとまっていなんですが少し言語化したいことがある内容についてお話ししようと思います。
ここに書くことって、大体いつも頭からお尻まである程度頭の中で整理してから書き始めるんですが、今回に関しては思ったことをそのまま文字にしているのでちょっと書き方が乱暴かもしれないです。ごめんなさい。
それほどまでにこれまでずっと感じていたモヤモヤなんですが、一定数の人から怒られそうだなというのがあり、ビビって書いてきませんでした。
ただ、なんの心境の変化か今回なぜかこのタイミングで話そうと思い立ったので、ちょっと感情に任せて書き殴らせて頂きます。
テーマは、冒頭にもあるように「根拠(定量的なデータ)を詰めてくる人は漏れなく知識でぶん殴ってくる嫌な奴。みたいな構造をそろそろ辞めにしたい」というものでして、要は…
アカデミック(学術)に振り切ろうとする奴って目の前の患者様みてなくね?
という大いなる誤解を解きたいなと、そういうことです。
リハビリテーション業界では、この誤解がそこそこあるんじゃないかと感じていて、この記事ではそこについて切り込んでいく感じの内容になっています。
では、はじめていきますね。
根拠(定量的なデータ)を詰めてくる人は漏れなく知識でぶん殴ってくる嫌な奴。みたいな構造をそろそろ辞めにしたい
事実(定量データや根拠)情報を求める人が「揚げ足取りな人だ」となっちゃう空気感
以前勤めていた職場の症例検討会で、聴講者である先輩が発表者の後輩にアドバイスを行う際に、「その考察の根拠(理論)はなんですか?」や「評価結果(定量的なデータなど)はどうなってんの?」と言うように、後輩の解釈ではなく客観的な事実を求めていた場面がありました。
で、こういう質問を投げる方というのは、『エビデンス』を結構重要視していたりするんですが、一方の聞かれた方はというと、自分の解釈は伝えられるんですがその根拠となる客観的な事実(評価結果や各種データ)は分からない。という場合が意外と多かったりしました。
で、これ自体は特に問題とかではなく一旦この場はこれで終わるんですが、僕がもやもやしているのはこの後です。
その場が捌けると、なぜか批判の声が上がってるんですね。
で、その矛先はどこかというと先ほど「根拠を教えてくれ」と発表者に聞いた質問者の方に対してでした。
僕としては、主張に対する根拠をただ聞いたというだけなのでそれほど違和感は感じなかったのですが、聞くとどうやら批判されていた理由は…
エビデンスも重要だけど、もっと目の前の患者さんをみようよ。
とのことで、その言葉に込められた意図としては「重箱の隅を突くような揚げ足取りな質問しないでよ」みたいな感じですね。
「目の前の患者さんを見る」という思考停止ワード
誤解を招きそうなのではじめに言っておくと、「目の前の患者さんを見る」という事自体に全く批判の意図はなく、むしろめちゃめちゃ同意でその通りだと僕は思っています。
ただ、このワードを使っている“人”に多少なり違和感を感じておりまして、というのが…
「目の前の患者さんを見ようぜ」と声高らかに叫ぶのは素晴らしいが、「それって客観的な事実がどれだけ大事かわかった上で言ってる?」という。
もっと言うと、「自分自身が提供している方法論のエビデンスや、理論的な部分をしっかり理解した上でそれ言ってる?」と、ここに対して強烈な違和感を感じています。
ちょっと言葉が悪いですが、「患者さんをしっかり見ようぜ!」と言う主張をやたら行う人に限って、理論や定量的な評価結果が壊滅的に理解できてない人って結構多いなと言う印象を持っておりまして。
要は、定量的なデータが見れないということを棚に上げ、「目の前の患者さんを見る」というのを前面に押し出すことで考えることを放棄しているような気がしているんです。
というのも、「目の前の患者さんをみようぜ!」ってわりと無敵かつ都合の良い言葉だと僕は思っていて
- 素敵な医療人っぽく聞こえる
- 定量的なデータを追う人より、人間味がありそうな印象を受ける。
というようなことから、圧倒的に味方が増えやすいんですね。
(これは僕の肌感ですが)リハビリテーション業界って正論をぶちまけるよりも、どちらかといえば多数派の意見の方が勝っちゃう空気感があるような気がしています。
「味方が増える」というのは、つまるところなんとなくそっちの方がイケてるみたいな方に流れていきやすいということですね。
で、この集団によって起きる壮大な思考停止感がなんともムズムズしてまして。
その結果、「目の前の患者さんをしっかり見る。エビデンスだけが全てじゃない」というように、「むしろエビデンスは悪だ」みたいな雰囲気が加速している印象を持っています。(これはSNSを見ていてもそう感じる時があります)
こういう状況に対して「本当にこれでいいんだっけ?」というのが僕が現状抱いている問題意識です。
定量的なデータを詰めてくる人=知識でぶん殴ってくる人という誤解
療法士の中には、理論や定量的なデータで根拠を教えてほしいと言う人が一定数いるんですが、これ自体はとても健全な問いだし、むしろ必要とすら僕は思っている派です。
ただ、こういうタイプの人は周囲から「あの人は論破したい人だから」と、なぜか知識でぶん殴ってくる人みたいなレッテルを貼られることがあります。(もちろん一部)
いや、一部には確かにいますよ。嫌味のように、「根拠は?」「根拠は?」と単純に相手を困らせたいだけの中堅おっちゃんセラピスト。
でもですね。この定量的なデータや理論の説明を求めてくる人の中には、案外本当に考えなくちゃいけない論点を質問(提供)してくれている人がいるのも事実なんです。
これらをまとめて『根拠の提示を論理的に詰めてくる人=知識でぶん殴ってくる人』と反射的に拒絶してたら、本当に考える力がないセラピストが量産されちゃうのではないかと結構本気で思っています。
セラピストの仕事は感情論だけで勝負していい仕事じゃない
理学療法士や作業療法士をはじめ、これは鍼灸師や柔道整復師といった資格保持者の皆さんにも共通することですが、人の身体を対象にしている私たちの仕事って情熱と感情論だけで勝負して良い仕事ではないと僕は思っています。
僕らがやらなけらばいけない仕事。
それは、少しでも目の前の患者様の回復に寄与するために質の高い医療サービスを提供しないといけないわけです。
つまり、いくら「目の前の患者さんをみる!」と崇高なことを言っていても、『自分のやっているリハビリの根拠がわからない』とか『検査結果のデータが読めない』みたいなことでは、簡単にノックアウトファクターに触れちゃうと思うんですね。
それをやると必ず失敗するもの。要は禁忌
なので、もちろん数字で追える事実には限界はありますが、だからと言ってここを放棄していいわけがないんです。
最低限エビデンスを追える情報収集能力や、論文に記載されているデータを読める能力、そして『自分が行っている臨床の根拠を自分の言葉で説明できる能力(一番大事)』、これらというのは全てのセラピストに共通して必須なスキルであると思います。
だからこそ、『定量的なデータで詰めてくる嫌なやつ』と反射的にそういう類の質問を拒絶するのではなく、「考えるきっかけをもらった」と前向きに捉え、仮にそこが苦手ならチャレンジしてみるのはいかがでしょうか?
以上、ただただ思いを書き殴った文章にはなりましたが、少しでも多くの方に届いてくれると嬉しいです。
それじゃ、今日もいい仕事しましょ。
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