私達セラピストは患者様に対して、治療を行う場合もあれば、訓練をする場合もあれば、運動指導をする場合もあります。
ですので、立場的にはなんとなくの空気感としてセラピストが「先生」、患者様が「生徒」という構図が出来上がります。
これは、決して間違っているというわけではないのですが
この「教師」と「生徒」という関係性を考ると、リハビリテーションを行っていく場合に時として、「誤った関係性」を築く可能性を秘めているのではないか。と私自身感じる時があります。
そこで今日はセラピストと患者様の関係性という観点から関わり方の部分について書いていこうと思います。
患者様との関り方
僕は、リハビリテーションを行っていく上でセラピストが「出来ること」と「出来ないこと」というのがあるとおもっています。
セラピストが出来ること
これは、患者様本人の身体的構造がどこかしら破綻をきたしており、第三者から手をくわえて貰わないことには改善が見込めない場合です。
これは例えば、関節の構造が破綻していたり、筋スパズムであったり、循環機能の低下などなどがあります。
このような場合、患者様本人な自分で身体構造をどうにかする事は難しいため、セラピストによるあらゆる手技的な部分や物理療法と言った部分大いに活躍します。
セラピストが出来ないこと
これは、「運動機能の回復」です。
しかし私達セラピスト、特に理学療法士は「基本的動作能力の回復」を支援する職業ですから、運動機能の回復とは私達に課せられた義務です。
ん?なのに運動機能の回復はできない??
運動機能の回復は私達の義務ですが、しかしあえて出来ないと書いていて、一見矛盾したいるようにみえますが、これは
「セラピストのみの力では出来ない」
という意味です。
というのは、これまでこのブログでも何度か書いてきたことがあるように
アフォーダンスであったり、能動性といった部分だったりと運動の発達は、ヒト自らが一人称的にあらゆる環境に相互作用することで創発するものです。
つまり、ヒトの運動の発達自体が「第三者の介入なしに行っている」という大前提があります。
そこで、「運動の回復」を考える上で最も大事なポイントとしては「患者様の意思」が入ってこなければ確実に運動の回復は望めないのではないかということです。
というのは、セラピストが出来る部分である身体的構造の破綻をいくら治療したとしても、運動の回復をしようと思ったら必ず患者様が動く意思をもったり運動する意思を発動させなければ、その人の運動は回復していきません。
先程も述べましたが、運動自体がその人にとって一人称的なものであるので、その人自身の「運動しよう」という意思そのものが上がってこなければ運動が回復もしくは運動学習というのは中々良くならないのではないかと思います。
それを踏まえて今のリハビリテーションの現状
それらをふまえて今のリハビリテーションの現場を見てみると、全員が当たり前のようにプラットホームに横になり、いびきをかいて寝ている患者様だって極まれにいます。
3単位リハ時間を設けていたとして、2単位寝る。1単位歩く。
こんな構図が今のリハビリテーションの現状です。
運動機能の回復と関係性
いくら、機能的な部分が回復しても患者様の意思の介入なしには、その人の運動は良くなりません。
では一体私達セラピストに出来る事はなんでしょうか?
ここで重要になってくるのが冒頭で述べた「関係性」ではないかと思うのです。
いかにして、患者様の能動性を引き出せる関係性を築くことが出来るのか。
この部分というのが凄く大事なのでないかと思います。
ではどうやって能動性を引き出すのか。
その答えになるかは分かりませんが一つ僕がこれではないかな?と思うこととして
「患者ではなく一人の人として見る」
だと思っています。
患者様にもきっと自分の思いや、動機も少なからず持っていると思うんです。
それは患者様という以前に一人の人間だからです。
人は誰しも必ず思っていることがあり、その意思に基づいて行為が創発されたり、言葉が生まれたりします。
ただ、リハビリを行っていく上でその部分って案外軽視されがちで、動機付けまでもがセラピストによるものだったりすることもあります。
「今日はリハビリしたくない」
患者様が言っているにも関わらず、その言葉の裏にある思いなどを後回しにして、セラピストはあの手この手でリハビリをさせようとします。
もちろん、廃用が進むリスク等も考えれば分かるのですが、ただ
そのリハをさせようとするセラピストの意図に
「単位を取らないといけない」
「上司から何か言われるから」
といった患者様には全く関係ないこちらの身勝手な都合を押し付けることがあるのではないでしょうか。
患者様が勇気をもって言った言葉に対しても、セラピストには理論で固められた説明をされるから、その辺の知識がない患者様が勝てるわけがないわけで、そればかり言われると何も言えなくなっちゃうのは当たり前だと思うんです。
患者様の話しも聞かずに、歩きましょう。立ちましょう。~してください。
と、動機づけが全てセラピストになっていると、やはり相対的に患者様が受け身になってしまう。
そんな状態だとどうなるか。
患者様自身も「治してくれるもの」と感じがいし始めるのです。
その結果、そういう意識づけをされている患者様がよく言うのは
「早く揉んでください」です。
それなのにセラピストは「私達はマッサージ屋さんじゃないので」
とよく分からないプライドを振りかざします。
もし、仮にプラットホームを無くしたとしたら一体私達セラピストって何が出来るんでしょうか?
私達が患者様の運動機能の回復を図りたいと本気で思うのならば、技術ももちろんですが、その前に患者様の能動性を引き出すような能力がまず必要だと感じています。
その能力は勉強の知識ではなくてもっと根源にある“人間力”です。
これは相手が患者様ということではなく、そもそも人とどう関るかといった一人の人として考えなければならない部分です。
私達理学療法士というのは、学校教育において筋力向上やROMの獲得といった治療的な色が強すぎて、人を見る教育が蔑ろにされすぎていると感じます。
そうなると、学校教育の時点から理学療法士は治せるという理解で教育を受けるから、自然とさあ行こうプラットホームへとなるのは当たり前。
もっと学校教育で教えないといけないのは勿論治療学も必要ですが
その前に、本当の意味での傾聴の仕方とか、人間関係の考え方とか、そういった哲学的な要素を含んだ部分や心理学的な部分を教えていかなくちゃいつまで経っても、プラットホームに行きましょうリハはこの先何十年も変わらない。と僕は思っています。
ただそこにはきっと治療という概念が根強すぎる理学療法士のプライドの高さが邪魔をしてるんだろうなと思いますが・・・・・
最後に、僕が好きな理学療法士の小林純也先生のフォーラムでの言葉を紹介して終わります。
良いセラピストとは
「対象者の行動を変えられる人」
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