運動制御の仕組み~ベルンシュタインによる動作構築の概念~
以前、運動の自由度問題と題しながら人に存在する冗長な運動のバリエーションの制御の仕方を解説していきました。
今回はより具体的に、運動制御の観点から生態心理学的アプローチの一端に触れていきたいと思います。
動作の階層レベル
ベルンシュタインはヒトの運動や動作を四つの階層処理があるとし以下のように定義づけました。
- レベルA:筋緊張
- レベルB:筋-関節リンク(シナジーパターン)
- 移動運動
- 行為
これだけだとなんのことかさっぱりわからないと思うので、一つずつ解説していきます。
この階層性については、以下の書籍で詳しく解説されているのでご興味ある方は手に取られてみてください。
レベルA(筋緊張のレベル)
レベルAとは筋緊張のレベルであり、筋肉が持続的に収縮することで身体を支持するといった機能になります。
ヒトの身体でいうならば、姿勢制御の部分であり、抗重力筋活動と言われるものがこのレベルAに当たります。
レベルB(シナジーのレベル)
レベルBはリズミックに動くシナジーのレベルです。
筋-関節による運動の事でありますが、これは1つの筋の要素的な運動ではなく(例:上腕二頭筋による肘関節屈曲)いくつもの筋活動を一塊の群として動員するものです。
こういった運動は、先ほど述べたレベルAが姿勢制御の役割をもち、レベルBと一緒になってシナジーパターンでの運動を遂行します。
レベルC(移動運動のレベル)
これは、レベルBによるシナジーパターンが構築づけられ、立ち上がりや歩行、走行、ダンスなど基本的に身体のみで遂行できる様々な運動の事を言います。
これは、先ほど述べたレベルBにおけるシナジーパターンがいくつも組み合わさってあらゆる運動を可能にすることが出来ます。
レベルD(行為のレベル)
これは大脳皮質が発達した人のみに与えられているレベルであり、人は上記までのレベルA~レベルCまでの背景を基にして「意図」に基づいてあらゆるバリエーションに富んだ運動のパターンを描くことが人にはできます。
それにはこの行為のレベルDが欠かせず、レベルDは言い換えると…
“沢山のバリエーションに富んだ運動戦略の中の一つを選択する「意図」“
と言い変えられるでしょうか。
ヒトの行為は反射的、刹那的に勝手に遂行されるのではなく、必ず本人主体の意図に基づいて行われます。
その意図に基づいて選択された運動こそがレベルA~レベルCまでの制御によってなされるものだということです。
そして、レベルDでもう一つ大事なことは、行為には必ず対象となる『物や環境』が必要になるので、レベルDでは身体一つでは完結せず、あらゆる環境との相互作用を可能とするレベルです。
ヒト特有のレベルDとは
実はレベルCまでの制御は、ヒト以外にもあらゆる動物に備わっています。
犬でもカエルでもワニでも、同じような運動パターンを描き陸上や水中を移動することが出来ますよね。
しかし、こういった動物が人と最も違うところ。
それがレベルDです。
というのは、例えばカエルを例に出すと
カエルは餌を捕食する時に、網膜に映った動く物体を捉えると反射的に舌が伸び獲物を捕らえます。
しかしある実験で、カエルの周囲に虫の死骸(カエルの捕食物)を置いたところ、カエルはそれを捕食しなかったそうです。
その理由としてカエルは、餌を見て何であるかといった判断はせず、ただ「動く物体」というのを餌として判断し反射的に舌をだし捕食する仕組みになっています。
ですから動いていない死骸というのは仮に捕食できるものであったとしても餌と認識できないわけです。
ところが、人は仮にそのような条件下(例えば木になっている木の実)であった場合
目で物体(木の実)を見て、それが何であるかといったものを過去の記憶から想起し、もし食べられるという判断がされれば、手を木の実に対してリーチングし口に運ぶという行為が創発します。
つまり、カエルとヒトで大きく違うこと。
それが思考することしたうえで行為の選択ができる事なのです。
この仕事を担っているのがレベルDの仕事になります。
先導役と調整役
少し先ほどの木の実へのリーチの話にもどります。
上肢が前方にリーチするということはある一つのシナジーパターンであるためレベルBが背景として必要ですし、さらに上肢を前方にリーチングするということは本来上肢の重さで身体重心は前方に偏移するので前方に転倒する可能性がありますが、私達ヒトが倒れない理由としては、レベルAが体幹部や四肢近位筋に対して予測的に筋緊張を調節し姿勢制御を行っているからです。
しかし木の実を食べるまでのこうした一連の行為はそもそもの「木の実を食べる」という意図(レベルD)が惹起しなければ生じえない行為となります。
つまり、以上の事から考えるとレベルA~レベルDまでの階層処理の中で先導しなければならないのはレベルDということになります。
逆に言えば、レベルAの筋緊張が動作を先導することは決してありません。
レベルAというのはレベルBの筋-関節の協調的な動きを行う場合や、レベルCの移動運動等を行う場合に、その背景調整として活躍するため、いかなる動作も先導はしません。
しかしその代わりレベルAはいかなる動作の背景調整役としては必ず存在しなければなりません。
これは例えるなら演劇やテレビ番組の構成と同じかもしれません。
レベルBやCに値するのは演劇でもテレビ番組でも役者や芸能人といわれる人たちで、目に見える華々とした人たちです。
しかし、この人たちが輝きを放つには、目に見えない部分で裏方と言われるスタッフの人たちのおかげでいかなるイレギュラーが起きても対応できるように常に背景でこのような裏方のスタッフが演出を調整しています。これがレベルAです。
ただその根本には、そもそも
「どんな番組にしたい」
「バラエティーなのか。ドラマなのか。」
といったような根本の方向性や意思決定がなければ話は進みません。
これがいわゆるレベルDです。
この部分がない状態で、行き当たりばったりで何かしようと思っても必ず失敗するのは目に見えていますよね。
日々の臨床を考える
これらの事をふまえた上で日々の訓練を少し思い出してみましょう。
ただ単に
「立って」
「座って」
などの訓練というのは、そこに患者様の行為の意図や目的、何が良くなれば良いのかといったものはありません。
こういった場合、患者様を先導しているのはレベルCです。
つまりレベルDの先導するものが患者様の中にない状態で、全てセラピストがレベルDの役割を担っているのです。
これの一体何が問題なのか。
具体的な例でいえば
”訓練ではできるけど、日常生活に戻ると出来ない”
といった状態になる可能性があると僕は考えています。
なぜなら本来、日常生活の中での運動というのは常にレベルDが先導しているからです。
訓練ではこの先導役(レベルD)にセラピストが成り代わっているため患者様は「言うことを聞く」というスタンスになっていますが、日常生活に戻るとその先導役は自分自身になるわけであるので訓練が行為に汎化しない。
つまり「訓練室ではできるけど、病棟や自宅に帰ったらできなくなる」、「セラピストの前だと出来るけど一人だとできない」といった状況になる可能性ってないだろうかと思うのです。
ただ、このような場合に時折私達は「この患者様はセラピストに依存している」といった解釈をしてしまいがちではないでしょうか?もちろん、依存している場合もあるとは思います。
しかし、依存をつくっているのが患者自身ではなく、私達セラピストである可能性もまたあるのではないでしょうか。
訓練の中でレベルDの行為の先導役を患者主体ではなく、常に私達が
「もっとこんな風に立って」
「もっとこんな風に座って」
「もっとここをこんな風にして歩いて」
などと先導してしまうと、患者様はただ「訓練のための訓練」を行い、日常生活に汎化していないだけかもしれません。
レベルA~Cは本来、レベルDの意思や意図などの背景に隠れて動かなけらばならないため、レベルA~Cをメインに行った訓練ではやはり、訓練と日常生活との解離は起きてしまうのではないかと思います。
運動制御の仕組みまとめ
では、一体どうすれば本当の意味で自立できるのか。
それはいかに患者様自身に意図(レベルD)を持たせ、それに基づく運動の制御を訓練していくか。
この辺りにヒントがあるのではないかと思います。
ただ実際問題、その意図を引き出すのが難しいですよね。
だからこそ、僕らセラピストはもっと筋-関節ばかりの表面的なところだけではなくて、相手の心との対話のスキルを学んだり、カウンセリングの知識を学んだりと、他分野・多方面からのスキルが必要ではないでしょうか。
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