本来私達は常にあらゆる感覚情報に囲まれていますが、それらの情報を全て意識化するとなると莫大な処理をしなければなりません。
そのため、前回お話ししたように『運動指令が不要な感覚情報を脊髄レベルでシャットアウトする』
という神経機構を私達ヒトはとっています。
と、前回はここまでお話ししましたが最後に一つ問題提議を行いました。
✅『不要な感覚情報をシャットアウトする』
✅『運動指令が運動自体によって生み出された感覚入力を相殺する』
とあるが
・何をもって不要とするのか
・どんな感覚を相殺するのか
果たしてこれらの基準は何であるのかという問題を提議しました。
今回の記事では、これらについて少し解説していこうと思います。
感覚フィードバックのホント②
選択される感覚情報
予測による選択
あらゆる感覚に囲まれた中でシャットアウトするものとしないもの。
この基準は一体何なのか。
結論から言いますと、これには『予測』と『志向性』が関与します。
まず、前回お話ししたように上位中枢からの遠心性コピーは脊髄に投射しており、末梢からの不要な感覚情報をシャットアウトすると言いました。
このメカニズムをお話しする前に少し想像してほしいのです。
例えば、道を歩いている最中に突然靴の中の小さな石ころを踏んだとします。
さてこのような場合皆さんはどう思われそしてどのような行為を行いますか?
多くの人が「あ。何か靴の中に入ってる!」と感じ、靴を脱いで確かめるのではないでしょうか。
実はこれが今回のお話しの答えになるので、この状況を頭に入れた状態で続きを見ていってくださいね。
まず、感覚情報をシャットアウトする運動指令は遠心性コピーであると言いましたが。そもそも遠心性コピーにはどのような役割があるか覚えていますでしょうか?
遠心性コピーというのは
運動の結果生じるであろう感覚を予測するために運動指令と並行して出される信号のこと
リハビリテーションのための脳神経科学入門第三版 森岡周
とされています。
つまり、運動を起こすとどのような運動が起きてどのような感覚が帰結するのかをあらかじめ予測する機構
と言い変えても良いかと思います。
もっと簡単にいうなれば『運動イメージ』はこれに当たります。
運動イメージは実運動を伴わずに、どのような運動が生じてどのような感覚フィードバックが帰結してくるのかをあらかじめ脳内で予測している状態です。
そして、その予測と実際に行った実運動に解離(不一致)がなければ、「不快感」や「出来なかった」と感じることなく運動が遂行されるわけです。
私達が日頃から当たり前のように行っている『運動』というのは実はこの繰り返しなわけです。
「水を飲む」という行為を通して予測機構を考える
『ペットボトルをとって水を飲む』
という簡単な動作一つとっても先ほどの予測機構が必ず働いています。
それは、ペットボトルに上肢を伸ばしていく運動に加え、どのくらいの重さでどのくらいの温度で、どのような表面性状なのかという帰結してくるであろう感覚フィードバックまでもを一度脳内で予測しています。
これが遠心性コピーの役割です。
そして実際に手を伸ばしてペットボトルを持ち上げた時に脳内シュミレーションされている『予測』と実際の感覚フィードバックにズレがないから特に何も感じることはありません。
要は『意識化』されないのです。
しかし、例えば思ったよりもペットボトルが熱かったり、重かったりすると
「あれ?」
と違和感を感じますよね?
つまりこれが予測(遠心性コピー)との不一致です。
この不一致があるから私達はその感覚を瞬時に学習し
「意外と熱いわ」とか「思ったより重い」
と感じ、これに対応した運動を行う戦略をとることができます。
すなわちこれが『誤差学習フィードバック』
いわゆる『運動学習』というやつです。
さて、なんとなくわかってきた方もいらっしゃるでしょうか?
では本題にもどります。
不要な感覚、相殺する感覚の基準は何か。
それは予測に対して不一致が生じたものになります。
先ほどの靴の話しに戻ると、歩くたびに足底に感覚情報が入り続けているにも関わらず足の裏の感覚に意識が向かないのは、言ってしまえば予測通りだからです。
生きてきた経験の中で
『歩いている時の足の裏の感触はこんな感じだろう』
と予測(遠心性コピー)が立ち上がっており、それと実際の感覚フィードバックに解離が生じないから意識されません。
しかし、突然小さな石ころなどが足底に当たるとその感覚は通常予期していませんからその予測と石ころという実際の感覚フィードバックに不一致が生じるので意識に上ってくるのです。
志向性と意図による選択
そしてもう一つ、感覚フィードバックを意識化する方法。
それは『志向性』です。
志向性とは
「意識が常に何かに向いていること」
という意味で、要は意図がどこに向いているかということです。
例えば、歩きながらでも足底に志向性を向ければ足の裏の感覚ってわかると思いますが、仮にその志向性を反対方向からくる人にむければ、途端に足底の感覚は分からくなります。
それは志向性の対象が視覚情報を元にしたものに変化しているのでそちらが優先されているからです。
繰り返しになりますが、私達の周りは常にあらゆる感覚情報が取り巻いています。
ただ、そんな感覚情報だらけの世界でも優先順位をつけることはできます。
それが『志向性』であったり『意図』であったりします。
では、これらの知識を少しリハビリテーションに置き換えて考えてみましょう。
リハビリテーションにおける感覚フィードバックとは?
例えば、『足底から感覚情報を入れて立位保持機能を向上させる』
という訓練の背景を少し考察してみると
もし、その患者様が
「今日の晩御飯は何かなあ・・・」
「なんだか手が痛いなあ」
というように、意図や志向性が訓練したい対象と全く違うところに向けられていたらどうでしょうか?
現象学的にみれば『立位』という様相をとっているので、他者から見れば足底と床が接触しているので足底から体性感覚フィードバックが入っている。
と見えるかもしれません。
が・・・!
しかし、当の本人はそんなこととは無関係なところに志向性がある。
そのような状態で本当に感覚情報が入っているでしょうか?
実際に足底と床は接触しているので、受容器は発火している可能性があります。
しかし、志向性がそこに向けられていなければそもそも意識化されません。
このような状態で運動学習というものが果たして行えるでしょうか?
また、いつもいつも予想通りの感覚情報を帰結するような訓練だと、これもまた学習できないのではないかと考えられます。
なぜならそこに誤差がないからです。
人が運動を学習するためには
「何か失敗している」
「うまくいかない」
といった誤差がなければ気づきは生まれません。
これは私達でも同じことだと思います。
自転車に初めて乗ったとき、最初は一生懸命自分のバランス感覚や漕ぎ方などに一心不乱に注意を向けていますが、だんだんと上手になってくるともう自動化されてきて意識から外れていきます。
これは最初の方こそ、運動のイメージと実際のフィードバックに解離(誤差)が生じ転倒ばかりしますが、だんだんとイメージ通りに動けるようになると、誤差が減ってくるから意識化されなくなります。
これが本来の運動学習です。
もし、運動学習を図るのであれば本人が「イメージ(予測)と違う」と感じなければならないのではないかと僕は思っています。
なぜなら、常に予測通りだと脊髄レベルで感覚情報が上位中枢に上がってこないという神経科学的なメカニズムがあるからです。
このようなメカニズムを応用する形として行ってる例として、僕は患者様に動いてもらう前には
「動くとどんな感じがしそうですか?」
と必ず、一度予測させてから動いてもらうように心がけています。
終わりに
以上が、体性感覚フィードバックを知覚するために必要なメカニズムになります。
適切に感覚情報を受け取るためには、患者様本人がリハビリテーションに対してどのように向き合っているかで大きく変わります。
そのためには、セラピストがどれだけ一回のセッションを丁寧にデザインできるか。ここが非常に重要になってきます。
最後に自戒の念も込めて。
いま正しいと思って当たり前にやっている治療や訓練は本当に良いものですか?
やっている治療・訓練のメカニズムをきちんと理解して行えていますか?
偉い講師が「~すれば~なるから」といっているものをただ手あたり次第マネしているだけではありませんか?
物理的な現象だけを見て推論していませんか?
自分の考えや推論に疑問を抱くことってかなり勇気が必要です。
しかし自分の行っていることに対して辻褄が合わなければ素直に疑問視出来るということが成長の一歩なのかなと思っています。
僕も、「この病態はこのメカニズムかな?」と仮説を立て検証してみますが、思うようにいかなかったりと心の中で沢山の矛盾と戦いながら日々臨床を行っています。
しかし、こういう試行錯誤の連続がいつか目の前の患者様や、自分が愛する人達が患者になった時に力を貸せるかもしれないと信じています。
患者様の改善可能性を信じて。
試行錯誤する自分を信じて。
明日もまた頑張ろうと思います。
おまけ
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